昭和57年08月16日 大祈願祭
今日御用の先生方が控えられる部屋に、今朝から今の金光様がお書きになった、俳句が、見事な軸にかけてあります。一回り大きな軸ですから、普通の短冊掛けでは出来ないと思った。先だってから、箱崎教会の記念祭の時に、記念品に頂いておりました、濃紺一色の見事な、色紙掛けの軸を頂いておりますが。これは折角こんな立派なもんだけれども、使いどこがなかなぁと言うてから、言うておりましたらそれを、久富さんが出して来て、こう掛けていました。
それがもう見事に、誂えたからと言うて、あんなに見事には、ぴったりしたものにはならんだろうと思われる様な軸をかけておられます。教祖様のこれは俳句句ですね。それに、「一筋の道起伏あり、風薫る」とあります。「一筋の道起伏あり、風薫る」何とも言えん句ですね。一本のこう道がある。それに必ず起伏がある。けれどもその風薫るという所にです。合楽で何時も私が申しますように。
薫るようなおかげを頂かせて貰う。これはあの、またの句にあれは山頭火という、有名な変わった俳句を作られる方がおりますね。その方の句の中に「まっすぐい道では疲れる」というのがあります。まっすぐい道は疲れる。曲がりくねっておるから、良いんだとこういう訳なんですね。私どもはまっすぐかれば、ばさろ良かろう様に思うたり、起伏が無かったら、またさぞ良かろうとこう思ったり致しますけれども。坂があったり下りがあったり、難所があったりするという所にです。
私は風薫るような薫るようなおかげを頂いて行くと言う事が、お道の信心だと思います。ただね、様々な難所があったり起伏がありますと、こう本当に神様にお願をして、ようやくここを通り抜けたと、おかげ頂いたと言うだけのおかげでは、風薫るようなおかげになってこないと思う。その起伏こそその曲がりくねっておる道であればこそ頂けない。でなからなければ、頂けない信心のまぁ妙境とでも申しましょうかね。まぁ開けてくるおかげを頂いた時に、それはもうおかげの世界ではなくて。
いわゆる信心の世界が、いわゆるお徳の世界が開けてくると思います。これは先だっての朝の御祈念の時に、信心の喜びおかげの楽しみと言う事を頂きました。信心の喜びにはね、必ず嫌と言うてもおかげが付き物です。おかげて形のものだけではございませんけれども。自分の心の中にもですけれども。神様の御働きと思わずにはおれない働きをそこに感じるのです。そこに楽しみがある。おかげの楽しみです。だから信心のその喜び。もう何年間、朝参りを続けております。
もう本当に金光様の信心は、有難いと思います、と言うだけでもしおかげの楽しみというのが無かったら、これはちょっと可笑しいんです。いうならば自分だけが、悦に入っておると言うか独りよがりの喜びでは、これは生み出されるおかげに繋がってこない。それでは、おかげの楽しみが無い。矢張り私どもは信心そしておかげを受ける。しかもそのおかげが、薫るようなおかげであって有難い、勿体ないという心を、絶えず自分の心の中に頂く事が出来る。お道では和賀心を目指すと申します。
いわゆる天地書付にございますように、おかげは和賀心にあるのです。その和らぎ喜ぶ心とは、私は真に有難いという心だと思います。しかも真に有難いという心がです。何かを受けた、頂いたという時ではなくて、いわゆる信心の喜びです。そこん所にね私ども長年、信心させて頂いておりましたけれども。まぁ何時もただ自分の信心を振り返ってみるのにお願をして、まぁ不思議なおかげを頂いたと言う様な時だけしか、こう喜びが湧かなかったり。あれは本当の喜びじゃなかった。
その喜びがまた次の喜びになって行くようなおかげになってこない。様々なそれこそ起伏のある道を歩かせて頂きながら、もうこの坂は越せんと思う様な所でもです。神様に縋って越させて頂いた、その向こうにね信心の喜び。ただそこを越しさえすればええ。おかげでただ越したというだけのおかげから、そこを越す時に力を受ける。昨日の富久信会でございましたが、昨日の前夜祭が終わってからでございましたが。
まるきり教は全国大会のごたるねと言うて、東京大阪あたりから、みんな見えておられます。福山、広島、もう九州は各県からの代表の方達が、一口ずつですけれども。まぁ富久信会というのは、合楽教会でお商売のおかげを頂いておる人達の信心研修が、毎月十五日にある。その中で鹿児島の佐田さんが、発表しておられましたが。もう本当に置いたものを取るように、おかげを頂く時もあるけれども。先月から今月にかけては、成就しなければならない筈の事が成就しない。
いうならば右と願えば、左と言う様になって行きますけれども。御理解を頂けば、頂くほどこういう時を大切にしなければならない。こういう時に、力を頂くんだなぁと思うて、従業員一同の方にもその事を言うて、まぁ一生懸命、励ませて頂いておるというお話がございました。ね。また売れたまた売れたという時だけが、有難いのではない。先月から今月にかけては、中々そのまぁ商いが思う様にいかんのだけれども。そういう時に力を受けるんだという生き方、頂き方構えが要るんです。
構えが無いと、そういうふうには頂けん。お願をしとるけれどもどうしてじゃろうかと思う。そこにいうならば、佐田さんの場合信心の構えを作っておられるから。はぁこういう時に愈々力を受ける時ばいと、いうなら従業員の方達も励ましながら、おかげを頂いておるという話をなさいました。構えを作っとかんとやっぱり駄目だ。ね。昨日誰かが言っておられました。例えば狩人が、鉄砲を担いで獅子撃ちに行くですね、その狩人が山に入った。獅子が飛び出してきた。
それこそ待ってましたとばかりに、銃を構えるとこういう。所がね迂闊にして、山に登ったら、イノシシがやってきたら、もうそれこそ慌てふためきしなければならんだろうけれども。獅子を打つ事をいわば目的で行ってるのです。ですから出てきたからこうやって、構えがあるから、まぁ獅子に出会うと言う事が、有難いと言う事になる。全く佐田さんの場合は、そんな感じがするんです。こういう生き方を愈々、身につけて行くという時にです。矢張りそれを身につけて行く手立てが要るんです。
本当の事が分かっとらんと、そう頂けんのです。最近合楽で一切神愛論と言う事が言われます。四、五日前でした。今度十月の十六日は、ここの十五年の記念の御大祭が仕えられます。それに記念出版に皆さんに、記念品に差し上げるのに、今ご本が出来ております。これは私が日々説かせて頂く御理解を、先生方がみんな毎日三時から研修を致します。それで、朝のその御理解を纏めたものを。
まぁその中から抜粋して一冊の本にしようというのです。その本の題名をどういう風に付けたら良いかというて、まぁ担当の先生方が、みんなよりより寄ってから、結局最近親先生が言われる一切神愛論としたら、どうでしょうかという風に申しますから。いやぁそりゃ良かばいと。もう合楽で説かれるのは、一切神愛論なんだから。御理念による助かりというのは、神様の心を分からせて貰う。神様の思いに沿わせて頂く。ためにはこういう、本当な事が分かったら、これを頂く構えというものがです。
いわゆる信心の稽古の材料として、有難く頂く事が出来る手立てが、日々説かれてある。「一切神愛論」というご本が、出来る事になっております。それから私どもがねそういう信心を、愈々身につけさせて頂くと言う事。信心の言うなら焦点が、ただおかげを受けると言う事に終始したのではね。昨日の研修の時でしたか、若先生が御理解二節ですかね。信心すれば誰でも神徳が受けられると、教祖は仰っておられます。けれどもね神様もまぁ振り返ると、百年間続いて来とる、お道の信心の中にです。
沢山な信者が出来たり消えたりして、今日に至っておりますが。果たしてどれほどしの人が、その御神徳を受けたであろうか、受けておるであろうか。私どもも思うておった。とても御神徳なんてものは、普通のもんじゃ頂けん。所が教祖ははっきりと、信心をすれば、誰でも神徳を受ける事が出来ると教えておられる。そのお言葉を最近は確かにそうだという風に思うようになりました。
だから昨日若先生の言葉を借りると、誰でも神徳が受けられるというのじゃなくて、誰でも神徳が受けられるというのが、過去の金光教じゃ無かっただろうか。誰でも神徳が受けられる。御神徳とはどう言う事だと思いますか。久留米の初代は、神様の御信用じゃからとこう仰せられた。確かにそうだと思います。私は思うです。天地との交流だと思います。あいよかけよで立ち行くという、ただまぁあなたがそちらを持つなら、私はこちらを持つと言った様なものではなくてです。
神様と氏子が拝み合えれる世界。教祖の神様はこの方が祈る所、天地金の神と一身とか、同根とかという言葉をお使いになっておられます。これは教祖の神様の専売特許じゃない。生神とはここに、神が生まれると言う事であって、みんなもその通りのおかげを受けられると仰せられるように。私どももそのいわば、天地人一如の世界と。合楽ではそういう風に申します。天地人一如の世界。それにはどう言う事になるかと言うと。いわゆる見やすい手立てがあるのです。
いうならばまずほんなら、天地日月の心になる事肝要と仰せられますから。天の心とは地の心とは、日月の心とはと、それをまず知る事です。分かる事です。これは勿論人間氏子が幸せになっていけれるという視野においての、天地ですよね。日月です。そらまぁ天地の事はとても、それこそ相分からずであります。けれどもこれは人間が幸せになる事のための、天であり地であるという心。天の心地の心。それを合楽では天の心とは、もう限りない麗しの心だと。
もう私どもにはそれこそ、信心は無くてもおかげはやってあるという、そのおかげには条件が無い。これをやるからこうと言うことではない。条件の無い心。しかも限りなく与えて与えてやまない心。まぁ麗しの心と言うのでしょうね。同時に潔い心とも頂きます。本当に、信心の稽古をさせて頂いておりますと、やはりここはどっこい、信心度胸とはこういう時に使うのだろうと思う様な事もございます。
だからその潔い心とか、その麗しの心という自分の心を、自分で合掌したい様な、美しいとかまぁ有難いという心ですか。がいわば天の心と一つになるのです。合楽で言われる、成り行きを尊ぶとか。黙って治める。これは私は地の心、大地の心だと思うんです。これに徹する事です。ですから土の心なら、土の心に徹するのですから。その天地が土の心なら私どもも、土の心になるから一緒にならない筈がない。
天地が油なら私どもも、油にならなければ。天地が水ならばまた私どもも水にならなければ。水と油では一緒になりません。ただおかげを頂いております。何十年信心しとりますと言うだけでは一緒にならない。天地の心を心とするという風に、まぁ申しますね。それをそんならもう、今日から只今から本気で一つ、黙って治めるという。まぁここは一口言うとかにゃと言う事もありますけれども。
そこを黙ると言う事は、どう言う事かというと。神様を信ずるから黙っておれると言う事が、体験して段々分かってくるです。初めの間は親先生が、黙って治めい黙って治めいと仰るから。もう歯を食いしばって黙って治めておりましたら、黙っておって治めて良かったという、まぁ結果が実験から実証が生まれてくる。それが重なり重なって行くうちにです。成程黙って治めると言う事は、こんなにも有難いものだと言う事が分かります。所謂それが土の心と同化して行く訳です。
だからそういう修行に、本気で取り組もうと言う事になったら、地の心にも天の心にも、入っていけれる手立てがね、日々合楽で説かれるのが、まぁ御理念だと言う事になります。いわば天地と同じ心になる稽古なんです。それをほんなら今申しますように、黙って治めるということなら、その気で本気になったら出来ん事は無いでしょうもん。同時に限りない、美しい心などというものは、中々一遍には出来ませんけれども。自分の汚い心が分かってくれば、くるほどにその心から愈々。
まぁ自分ながら自分の心に合掌出来るような心になって行く自分を、楽しませて貰えれる信心。おしいですね。信心というのは本当に、例えば黙って治めるなら黙って治める。成り行きを大事にさせて貰う。大事には出来んけれども大事にさせて頂く。そうして行くうちにです。いつの間にか私の心が、美しゅうなっておるのに、又は度胸が出来て行くのに驚きます。五年、六年成程十年もしたら、我ながら和賀心を祀れと仰るような。それに本気でその一言ならその一言に。
取り組んだら十年後にはわれながら、和賀心に祀れれる様になるのが、私は金光教の信心だと思います。その事に専念する事。教えに本気で取り組む事。昨日の御理解に御理解何節でしたか。ね。信というたら一つじゃという御教えがありますでしょう。大工を雇うても、棟梁がなからなければ出来ない。ものを頼むでもあちらにも頼む、こちらにも頼むでは中々相談暮れ、物事がはかどらぬ。もうあなたにあなたよりほかに頼む方はないとして一人に頼む。いやぁ私はもう一心です。
金光教一本です。改式もしました。毎朝朝の御祈念にも参っておりますと言うから、私は一心と言う事じゃないと思うです。世界中のいうならば、日本中の神々を信心するというのは、あまりもの信心じゃと。一心と定めいと言われるので、ほんなら金光教一心に、一本に定めましたと言うだけでは、一心に定めた事にはならん。一心に定めると言う事は、あなたを信じて一心を定めると言う事である。どうでしょうか皆さん。そして私どもの、願いなら願いを聞いて貰う。
所が神様が言う事を聞きなさらん。おかげを下さらん。薫るようなおかげにならん、とするならば私は願っておる者の、その心がですどれほどに、神様を信じてお願をしておるか。そんならまた神様の言う事を、どれほど私が信じて神の言う事を聞いておるかと言う事を思うてみると、すぐ分かります。どうでしょうか。私どもの言う事を聞いて貰いたいならば、神様の言う事も、また聞かなければならん。
神様は決して無理な事は仰らん。楽の先生達がおります部屋の床の間に、英彦山で十三年目十三年目に咲くという、ミョウガの花がこう写生してきた、ある絵描きさんが私に送ってくれた。それを私神様にお供えさせて頂いておる時に、頂いたんですけれども。家絹は、難しされど妙賀かなと。妙賀というのは茗荷の花の茗荷じゃなくて、喜びの妙ですね。賀は賀正の賀。妙賀と私がそれに賛を書いております。
段々信心を極めて参りますとです。神様は決して難しい事は仰らん、とこう今申しましたけれども。たまにはねこれは私の場合ですけれども。そんなこともでうち切りよったら、人間の楽しみも無いじゃないかと思われるような事もないじゃなかったです。所がその頃にはもう、私の心の中に喜びの妙、信心の喜びを頂く事が、もうこよない有難いものになってきておった。その打ち切る事は難しいけれども。喜びとそれとを比べてみたら、喜びの方が少しばっかり強かった。
それを打ち切る事にした。いうならここは、まぁ一つの改まりというても良いでしょう。まぁなかなか改まりが出来なかった。酒好きの人に酒を止めよと言う事は難しい。けれどもね、神様の仰せには背かれんという様な時代です。これは確か秋永文雄先生の言葉じゃなかったじゃろうか知らん。ある時に夫婦である難しい話になった。けれどもねここはねいわゆる、おかげを受けておる親先生がかく言うから、丁度あのお蔦主税のセリフじゃないですけれどもね。
別れたくはないんだ、けれどもね俺とお前の命を、二つを一つにしても、まだ足りないほどしの大恩のある人が、別れと言われるからここでは別れてくれよと、あの主税がお蔦に頼む様な、まぁセリフと言う事はないけれども、夫婦の間にそんな話をした事を、私は一遍お取次させて頂いた事があった。難しいそれはやっぱり。けれどもやっぱり今日、ほんなら文雄先生があのように、まぁいうならばもう何十年でしょうかね。もう絶対腹は立てんと言った様な修行に取り組んで。
それが今では有難いものになってきておるようにです。私は例えばほんなら、ささやかな商売ですけれども、百万円のお金だけには不自由致しませんと、こう言うなら豪語しておりますよね。必要な時には必ず百万円のお金だけなら、ね。そういう言うなら薫るようなおかげの実証というものがあるのです。ここでは俺とお前の命を、二つにしてもまだ足りないほどしの人から、ここを改めよここをこうしろと言われるから、こうしなければと言うのですから。そのあとに頂くその妙賀が素晴らしいんです。
私は今日この和賀心和賀心と、こう中々和賀心のとっても、ほんなら頂けるもんじゃないと、こう思うておりましたけれども。段々この頃どう言う事かというとね。皆さんこういう風な事を思った事ないですか。本当に不平不足を言わんですみ、思わんですむ世界があるならばと言った様な事を。不平不足を言わんで済み、思わんで済む世界こそ、和賀心の世界だと思うですね。皆さんそこを目指しましょうよ。私共も不平言わずにおれない。思わずにはおれない。
けれどもね言うなと言われるから言わん。思うなと言われるから、これをまぁ打ち払うと言う様なこっじゃ、出来る事じゃないです。その不平を言おうとしておる、思おうとしておるその事のいわゆる、実態というものがです。最近合楽で言われる、一切神愛論を紐解かせて頂くとです。それこそ不平所か不足所か、むしろその事に対してお礼を申し上げねばならない事が分かってくる。ね。不平不足が無くなってくる。思う事もなくなってくる。一切神様のご演出である。
神様の言うならばより力を下さろう、よりおかげの世界を分からせて下さろうとする、神様のお働き以外にはないと言う事が、それが具体的に分かって参りますとね。はぁここでは、不平を言うてはならぬ、不足を思うてはならぬ、言うてはならぬとから辛抱するというのではなくて、むしろその事に対してお礼が言えれるような心こそ、私は和賀心だと思うです。皆さん本当に不平不足のない世界に住みたいですね。
昨日の御理解にでしたか。そういう意味の御理解を頂きましてですね。日田の綾部さんのお導きでもう数年前でしたけれども。熱心に夫婦で参っておられました。その嫁さんの、お父さんというのが。もう十四五年間こう言語障害というですか。全然ものが出なくなりました。それでその娘に当たる方が、一心にお願いさせて頂いておりましたが、ある時、もうそれこそある日突然、お婆さんが電話かけよりなさった。そしたら隣の部屋からその、もの言わんお爺さんが、「おいおい」とおらびなさった。
もうびっくりして持った受話器を取り落とした。あらもうびっくりした時には、ものを取り落とすとは本当ですが。もう本当にそれこそ持った受話器を取り落とした。それから元の様にお話が出来るようになった。まぁそれこそ喜んで。・・・所がそのお爺さんが自分の息子やら、嫁やらそれから嫁ってる娘やら、孫達までみんな集めて十五年間の間に、お前何時俺にこんな事を言うた、あんな事を言うたと言うてね。もうようこげん覚えとられるというぐらいに、その十五年間の不平不足を一杯言われたそうです。
そして言い終わられたのと、ものが言えなくなったのが一緒じゃったんです。だから私共がね簡単に不平不足を思うたり、言うたりしよると言う事は、そういうおかげをいやおかげなら、まだ良いですけれども。神様が御神徳を下さろうとしておる、その御神徳をまで崩してしまうのです。皆さんどうですか。はぁ自分がお徳受けられん筈、おかげが受けられん筈、心ひとつですべてを作ると言われるが。
これは二、三年前でしたでしょうか。今日もお参りになってると思うけど、あの福岡の東さん所のお婆ちゃんが、参拝をしてきた時に、お届けさせて頂いておったら、心ひとつですべてを作ると、こう書いてあるのを反対にしてから、こう御神米を下げられた所を、御神願に頂いたんです。反対でした。心ひとつですべてを作ると言われるが、ほんなら反対にしておると言う事は、心ひとつでまた全てを壊すと言う事にもなるでしょうが。心というものはそんなに、微妙なもんなんです。
だから腹立てちゃならんとか。だから不平を言うちゃならん、思うちゃならんだけでは駄目です。言うては勿体ない思うては勿体ない。愈々神様の心の奥の奥が分からせて貰うて、その事に対してお礼が言えれるような心を、私は勉強して行く事だとこう思う。だからね金光様のご信心は、心ひとつに取り組む。これに傾倒して行く以外にないです。これも、先だって、あの、今日も、お参りになってると思うですが、踊りの師匠をしておられます方があります。奥様は熱心に参ってきます。
御主人は信心がない。所が二人とも不思議な病気で、病院に入院する事になった。おかげを頂いて二人とも、本当に神様のおかげをと言わずにおれないおかげを頂いて、始めてその御主人夫婦揃うて、お礼参拝に見えた。それで私はその御主人に合楽の信心を、少しお話をしたけれども。何かつうともせんごたる感じです。分からん。入って行かん。コンクリートの上に水撒くごたる。そんな人がありますよ。皆さんに私の話が一つも入って行きよらんならあなたの心は、コンクリのような硬い心です。
はぁそうどころじゃない。そうどころじゃないと合点しながら、頂いておる人は、ね。それこそ私の話がどんどん、皆さんの心の中に入って行っておる時です。かたくな心ではいけません。その私どもがいわゆる、受け袋を作らせて貰うて、それから私は話を変えました。お宅のお母さんがね踊りが好きで、踊りの稽古をさせて素人ながらも踊りの稽古をさせて頂いて、藤間何々という名まで頂くように、踊りが上達した。
最近ではお師匠さんと言われるようにお弟子さんを、少しばっかり持って踊りの稽古をなさっておられる。もう(うんしゅうかい)が楽しみ。ね。信心も同じです。例えばお話を、聞いておるだけではなくて、それを聞いて実験実証いや、本気で信心の稽古をさせて貰おうという気にならなければね。信心、合楽で言われる。有難うして楽しゅうしてしかも、愉快にまでなるんだと言う様な事になってこない。
踊りの好きな人は沢山ある。見るとだけは分かる。目も肥えてきたけれども、そんなら好きだから、見とったから覚えると言う事はない。やっぱ手を取って一つのリズムに乗って合わせて、踊らせて貰う稽古をさせて貰うて、始めて手足を動かすだけの、ぎこちない踊りから、それこそ身も心もいわゆる、体のこなしまでが出来てくるです。所作が良くなるです。身のこなしがもう普通の時でも、あの人は踊りをなさるのじゃないだろうか、姿がええと思いよったらと言うそうなんです。姿が良くなるです。
信心も同じです。ただ聞いておるだけではいけません。只おかげを頂くためだけの信心では駄目です。信心の稽古に通うてこなければ。稽古をしようと一心発起しなければ。そこからですね。例えばほんなら楽員さんが、今二十何人居りますでしょうか。あの人達は、特別の才能があると言う事じゃないです。御用として琴なら琴を覚える気にならせて頂いて、稽古させて頂くうちに調子が分かる様になり、みんなで合奏が出来るようになるのです。だから習おうと思えば誰でも出来るように、信心の稽古もそうです。
教祖様が仰る。信心すれば誰でもお徳が受けられると仰せられるのは、お徳の受けられる信心を、本気で、焦点を間違えちゃ駄目です。まぁ私は何十年金光様の信心をして、有難い有難いと言うておっても、その有難いにいわゆるおかげの楽しみと言った様な、おかげの実証が、もし伴うていないとするならば、あなたはただ独りよがりの喜びなんだと。信心の喜びではない、それでは生み出されるはずはない。
神様と一緒に喜びあえる信心。教祖様が、お届け帳を繰りながらどうして、こういう有難い事になってきたであろうかと、思うておられると。神様が語りかけておられます。その方は悲しいのではない、ね。悲しいという言葉を使って、悲しいまでの喜びを、神様と金光大神が、喜び合うておられる場面が、お伝記の中にございますでしょう。それこそ、歌人なら、歌も詠もうにと言うておられます。その切ないまでの、天地金の神様のお喜びと、教祖金光大神のお喜びが一つになって行く。
これは、金光大神の世界だけではない。金光大神の信奉者一人一人が、そういうおかげの世界に住む事が出来る。それにはまずほんなら、本気で天の心とは地の心とは、日月の心とはと、分からせて頂いたら、それを実験実証する事なんです。その実験する事がです。決してまっすぐい道ばかりではないのです。又は一筋の道にも起伏あり。風薫る様な薫る様なおかげを頂くために、その起伏もまた神願、又は神愛と悟らせて頂いて、そこを有難く通らせて頂く様な信心。
そこに天の心と交流する。地の心と交流する。その黙って治めるとか。いわゆる麗しの心、潔い心と言うような心が、段々垢抜けして参ります。そこからね、本当に我情我欲を離れて、真のお道を開きに、我が身は神徳の中に生かされてあるという、その我が身は、神徳の中に生かされる。中々我情をとる我欲をとると言って、中々取れるもんじゃないですけれども。その天地日月の心の一言でも、本気でそこの合楽の、久保山さんじゃないけれども、毎日毎日今日も。
愈々成り行きを大切にさせて下さい、尊ばせて下さいと言う様な信心が七年、八年続いておるうちに、何時の間にか、我情が取れて行く自分、我欲が取れて行く自分に、気がつきましたと言った様な事をお届けされた事があるが、私はそん時にははぁ我情をとる、我欲をとるだけじゃいかん。本気で、教えに徹する事なんだと。そこに我情が取れて行く、御欲が取れて行く。それは始めの間はそれこそ、三代金光様でも初めの間は、辛ろうて辛ろうてよう泣きましたと。
けれども親様が辛抱しておればと仰せられるから、辛抱しいしい泣く泣く辛抱しておりましたら、思う事もなくなり、欲しいものもなくなったと仰せられております。全くその通りです。思う事と言う事は我情です。欲しいものと言うのは我欲です。そして有難うして有難うして、そのおかげのお礼の足りない、いわゆるお参りばかりを致しておりますと仰せられております。だから問題はね泣く泣くでも、それはそこを辛抱しぬかせて頂いて、もう辛抱するという言葉が無くなるくらいに。
辛抱の徳を受けたいです。先だって頂きました事でしたが。私どもがどういう時に、神様と折角交流が始まった様にあるけども、断絶になってしまうのであろうかと。例えば今毎朝沢山の人が、朝参りをして参ります。私は三時に起きてから、宅の神様の前で一番にお願をするのは、今日も朝参りをして参ります.氏子にどうぞ有難い目覚ましのおかげを頂かせて下され。道中無事、しかも構えを作ってお参りが出来ますようにと言う事を、一番にお願いするんです。
沢山の修行生がおりますが。どうぞ愈々朝を命とし、朝を大切にさせて下さい。そういう祈りの圏内にある皆さん。それでも矢張りたまにはこれがお試しというのであろうか。もう、今日ばっかりは参ろうごつ無いという時もあるけれども。今日だけはもう御無礼しょうかという時もあるけれども。その辛抱こそ身に徳を受ける修行なんです。今日はもう、お断りして御無礼しよう。そういう時にです。折角お徳が育って行きよるとが、がたっと、もうお徳と断絶になる。
そういう所に難しいというなら、難しさがあるけれども。そこを乗り切れる所にです。泣く泣く辛抱するとこもあるけれども、その向こうに思う事もなくなる、欲しいものもなくなるという様な世界があるんです。だから問題は本気で信心の稽古をしようという気にならなければです。やっぱ、その辛抱は出来ません。おかげさえ頂きゃ良いというだけなら、また、そういう辛抱をすることも要らんでしょうけれども。
教祖様が仰る、信心をすれば、誰でも神徳が受けられると仰せられる、その神徳を頂かせて貰う手立てがです。合楽では御理念による、いわばそれをまぁあらゆる角度から説く訳です。ですからそういう信心をね、身につけようとする、私は精進がね一心発起がね、いわゆる構えがね、要ると思うんです。さぁイノシシが出てから、びっくり仰天するような事ね。はぁ待ってましたとばかりに、構えが出るような信心。
もうね。教祖の神様はそれこそ、あられもない修行をなさった。後々の者はみやすうおかげを受けさせると仰せられる。と言う事はね。ただ安居安穏で、おかげが受けられると言う事じゃないです。それこそ、あられぬ行と言う事が、あと後で教祖様が、御晩年になられればなられるほど、有難い御神格を、生神としての御神格を高めてお出でられるに従ってです。そういうあられぬ行というものは、御晩年の頃の御教えの中にございますね。水をかぶったり断食をしたりするのは。
金光大神は大嫌いじゃと仰っておられる。だから焦点を間違えた修行では、どんなにほんなら、本気で稽古しても駄目だと言う事です。合楽で私がこの事に気づかせて頂いて、もう七、八年、十年にもなりますでしょうか。あの合楽で表行全廃と言う事になった。いわゆる、あられぬ行をさせて貰うとった。ほらもう冬の寒中に、この耳納の山中の滝場にね。それこそ氷ツララのこう下がっておる所で、滝の水をかかって、大祓い上げてからやっとった。それでねやっぱその有難くない事はないです。
やっぱ一心にけれどもね是ではね、何様もかに様も同じ事になるです。金光教の独自性というならば、教祖がはっきり仰るようにね。そのあられぬ行じゃなくて本当の信心。それを合楽では心行、信行家業の行と言っております。勿論心行というのは心の行です。心行信行というのは信心の行です。ほんなら朝参りなら朝参りというのはこれはもう信行です。そして家業そのものが、いわば本当に御用としての内容のある、いわば修行になってこなければいけんのです。これを愈々極めて行くこと以外にない。
合楽でこの表行全廃。いわば表行修行生の中にも、それでもやっぱ断食したりする人がありましたから。そういう事するなら私は破門だと、もう合楽におっちゃならんと、私は申しました。それでもやっぱしようごたるとがおるですもんね間に。でそげんとは本当に、ここで修行してはならんと言うて、断りました。もうこれはねいわば、いろんなあらゆる宗教がございますが、やっぱりそういう表行の、もっともっと私に言わせると、具にも付かん様な事を修行としてその荒行の様な行を。
いかにも人の真似の出来ない行をして、まぁ得々としておると言った様な人もの宗教もありますけれどもね。金光大神の信心はそうじゃないです。そういう所にはっきりと、金光教の信心の、まぁ独自とかね、特異性というものを、私どもは分からせて頂いて、合楽で、この表行全廃をさせて頂いた年から、ばぁっとこうヒレイが変わってきたんです。これは私がだから実験実証を持って、あちらこちらから参って見えられる先生方には、その事をこの頃も四国から参ってきた先生に、その話をさせて貰いました。
そしたらやっぱ四国あたりは、そうにゃ表行の激しいところだそうですけれどもね。金光大神がそれでもやっぱり、表行より心行をせよと仰るから。表行をするなとは仰ってないですからなぁちて言われるから、もう二の句が継げなかった。これは私の体験から言えれる事なんですけれども。そういう表行をするなと言うちゃないけれども。表行をしたんでは、本当の金光教独自のヒレイとか、おかげにはならない。もう本当に金光教は、大阪の白神先生が仰っておられるのに、もう前代未聞であり開闢以来なんです。
どこをどういう風に取られて、そういう風に仰っておられるかは、私は知りませんけれども。合楽理念を愈々、深く広く頂けば頂くほどです。成程開闢以来だなぁ前代未聞の宗教だなぁと言う事を、愈々強く感じます。だからそこん所の生粋の信心をです。身につけて行かなきゃいけません。だから勿論心行信行、家業の行とまぁいうなら、誤魔化しがききますけれどもね。結局私どもが本気で、そこに取り組ませて頂いての信心修行。そして強引にそれこそ神様に。
強引に頼み込んでおかげを受けるという信心から、薫る様なおかげ。先だって丁度夏季信行が終わりました日。ここでマルショウの方達が、十日間マルショウ全国大会に出るために十日間合宿致しました。六十名あまりのバンド員の方達が、ここで合同演奏をやりました。私が正面で聞かせて貰いながら、何時の間にこういう毎年毎年、育って行きますから、青年会の方へ入って行くでしょう。
だから毎年毎年こうやって次から次と、しかもああいう手の込んだバンドなんかの模様する子供達が、ようもあるもんだと思うて。ここ一杯いまだにその見事な演奏をやりました。私はもう本当に感動しました。有難いなぁと思うて、お礼を申させて頂きましたら。薫る様なおかげと頂きました。これも十日ばかり前、皆さんは入口の所に、十五年の記念祭の看板が出ておりますでしょう。丁度四時半の御祈念を終わったら、若先生が看板が出来たから、見てくれという。
もう久しぶりで外へ出ました。そしたら素晴らしい看板がこう出てますね。開教十五年の。神様に私がお礼を申させて頂きましたらそん時もね。薫る様なおかげだと頂いた。ははぁ看板が出た。十五年の記念祭までに、言うなら恐らくこの調子で行くならばです。また、薫る様なおかげの記念祭が仕えられる事であろうと。ためには愈々神様のお働きに、邪魔するような事があってはならない。
人情は使うてはならない。人間心じゃいけん。神様のお働きに邪魔にならんように、愈々成り行きを尊ばせて貰わなければならない。お礼で申しておりましたが、あれを看板を、白地に黒でこう頼んだ。所がその看板屋さんが、濃紺のあの紺がよっぽど好きな人でしょう。あの高い立て看板も、そちらが作られたそうですが。半分を濃紺にしてそこに浮き出すようにこう白い字でしてある。
それこそ薫るような感じの看板が出来ておりますね。もうたった三万円ぐらいで、ここに( ? )そげんしましょうち言うげなもん。そるけんいやぁもう、三万円もかかるなら、もう白に黒でよかですよち、言うたらやっぱあげん作ってきてから。もうこら私の方からしたっじゃから、こらサービスしときますち言わっしゃった。こげんとが、薫る様なおかげ。(笑)だから看板が、薫るようおなおかげだったから、これから記念祭に向かって、様々な事が、計画されておったり致しますが。
また薫る様なおかげで、締めくくらせて頂くためには、愈々もって愈々、成り行きを尊ばせ、いわゆる薫るという字は、草冠に重んずると書いてある。そして心とある。点々薫という字。ね。もう愈々自然を、働きを重んじる心。ここに薫るようなおかげが約束されるのです。しかもそういう心こそ、天地日月の心と、一つになれる手立てなのです。天地人一如の世界に住む事も手立てなんです。
お互い言うならば、強引ないうなら、まぁどうぞどうぞというおかげからです、それこそひとりでにものが出来るようなと仰せられるような、薫る様なおかげの世界。ためには愈々自らの心の中にある、和賀心とは似ても似つかない心に、取り組ませて頂いて、改めても行かなきゃならん。いやここ改まったら、もう人間止めた方が良いち言うごたる時もあるかも知れませんね。
タバコ好きな人にタバコを止めよと。酒好きな人に酒を止めよと言う事は。けれどもね段々信心の一つの妙境というか、信心の有難さがこれを断ち切って、その妙賀が得られるならば。それをまた切る事も潔い心を持って、それを改めて行く事が出来ると思うたら、泣く泣くでも、矢張りそこを改めて行くとう生き方を、身につけて参りますと。改まる事の楽しみが、また生まれて参ります。今まで知らなかった、おかげの世界が開けて来ます。和賀心とは私は不平を言わんで済む、思わんで済む世界だと思います。
一つ本気でね。本当に不平不足を言わんでも、思わんでも済む様な世界が、そこにあるなら、そこに辿らせて貰う道があるならば、本気でその道を教えて頂きたい、その道を行じたい。という様な一心発起の心を出させて貰うて。信心すれば一年一年有難うなる。信心の位も付くと仰せられるが。一年一年有難うなって行く楽しみ。はぁこれが信心の位であろうかと思われるような、いわば心を自分の心に頂きながらの信心でないと、年をとるに従って、淋しゅうなる様な。
おかげおかげの信心じゃ、必ず淋しゅうなります。ここではそういうおかげを頂こうと、一心発起するとその手立てがね、踊りを見とるだけでは、踊りが好きですというだけではいけません。自分がやっぱり踊る、自分が稽古をしようという気になって、手足を動かす所からぎこちなく踊って行くうちに、もう身も心もリズムに乗りに乗って、それこそ楽しゅうして、有難うして、踊る事が出来るような。一つ信心もそういう信心を、一つ、目指したいと思います。
そこには金光大神が教えられる、信心すれば誰でも御神徳が受けられると仰せられる信心とは、そいういう信心が有難くなり、いわゆる信心の喜び、おかげの楽しみというものが、愈々広く大きく育って行くおかげを頂きたいという風に思います。どうぞ皆さんもう本当にね、私がこうして少しばっかりおかげを頂いておりますから。私が教祖の御教えを、本当に実験して実証して嘘じゃない。その実証しておる姿が、今日の合楽です。ですから、一つの手本ですから。口だけじゃないです。
先だって「あいよかけよ」のご本を頂きましたが、須田隆太郎という先生が力の論理と、神の論理と言う事で、こう色々ねまぁ戦争やらで勝っても負けても、こんなに馬鹿らしい悲しい事はない。これは力の論理の結末だという風に言うておられますそうです。ですから、神の論理とはお取次を頂いて、教祖金光大神が人が助かる事さえ出来ればと仰ったのが、神の論理だという風にこう締めてありましたけれども。私はその日の研修で先生方に、合楽の場合はこれは、力の論理でもなからなければ。
神の論理だけじゃ足りない様な気がするがと言うて、まぁみんなと研修した事でしたけれども。金光大神が人が助かる事さえ出来ればと言うのは、今日皆さんに聞いて頂いた様な意味においての助かりだと思うんです。いわば天地と交流する手立て、天地が水ならこっちも、水になろうと言う事になって、始めてその天地と一つになる事が出来る様な助かり。そこから言うならば、薫る様なおかげも、いわゆる本当の金光大神の世界。本当に天地金の神のいわゆる神の論理と言うのは。そこまで徹しなければ。
本当の事じゃないです。お導きをしたおかげ頂かっしゃった、病気が治られたある事が解決した、と言った様なおかげではね。また必ず消えるです。勿論それは序の口としては、それも尊い事ですけれども。愈々お互いこうやって言うなら、肉眼をおいて心眼を開けと仰る。心の目を開かせて貰うて本当の意味においての、神の論理に基づく日常の生活が出来る。初めてそういう生活を、本当の信心生活だという風に思います。折角信心させて頂くのですから、信心生活が出来るおかげを目指さなければならんと思います。
どうぞ。